Author:よのすけ
長年勤めた会社を早期退職し、今は生まれて初めての海外生活を満喫しています。場所は西オーストラリア州の州都パース近郊のフリーマントルという港町です。
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北京オリンピックが終了して4日、今ではTV番組も以前と同じようにつまらない番組ばかりに戻ってしまった。今、我が家では受信できるTV局が5局しかないだけに(1局はデジタルチューナーが信号を拾わなくなりました、原因は我が家のアンテナが老朽化しているせいと思います)平日の昼間など見るべき番組は皆無です。
オリンピックの合間はほとんど一日中CH7とSBSが中継を流していてくれて、日本の選手はあまり映りませんでしたが、やはり何処の国の選手だろうと、オリンピックという大舞台でBESTをつくす姿は、思わず惹きつけられます。そういう点では商業主義だ政治利用だとも確かにいえますが、オリンピックってたいしたもんだと思いますね。
しかし、それと中華人民共和国に対する懸念は全く別の問題です、オリンピックが一見とどこおりなく終了したような報道もありますが、そうでしょうか。
・IOCにはオリンピック開催までに人権問題の改善を約束したが、まったく守らず
・世界各地での強引なトーチ・リレー
・海外の報道人への報道規制・妨害、拘束そして暴行
・北京市の、すべてのタクシーに盗聴マイクを搭載
・開会式の花火のTV映像はCGだった
・少数民族を代表したという子供達は、ほとんど漢人の子供
・開会式で歌った少女は口パク
・女子体操の金メダリストは年齢詐称して出場させた疑い(現在調査中)、隠し通すだろうが。
・期間中もウイグル、チベットその他で抗議活動があったが、すべて力で押さえ込んだ
・閉会式の地図には沖縄を琉球島と表示し、次の覇権作戦が既に始まっている
オマケで北京近郊の工場など大気汚染の原因箇所の操業一時停止、閉会式の雨を防ぐために241発のロケット弾を使用した。
これだけでも、この国の流儀が明確に見えると思うのですが。
大会スローガンは「ひとつの世界、ひとつの夢」・・・・・・・こんな国が描く世界や夢が魅力的だと思いますか。
感じられるものは「偽」「隠蔽」「面子」「暴力」「ルール・約束無視」
そういえば冷凍毒餃子はどうなったのだろう。回収したはずの毒餃子が、どういう訳か中国国内に流通し、当たり前に中毒を起こしたはずだが。
この国の常識が世界に蔓延しない事を祈りたい。
★オリンピックの直前に北京に行った人が、もの凄い蒸し暑さと、大気汚染だったと言っていました。
★ほほう、北京の運河はまるで道路のように見えるのですね
★船が浮かんでいるので、やっぱり運河ですよね????
■さらにオマケのリンク
北京五輪が教える日中関係悪化の真因
中共の真の姿
TVを点ければBeijing、Beijing、Beijing、・・・・・・、皆さんすっかりオリンピックではしゃいでいますが、何か肝心なことをすっかり忘れていませんか? なんて思うのですが。
本当にこの国をこのままにしておいて良いのですかね? 特に日本は最悪の被害を・・・・・。
ナチスのオリンピックが頭をよぎって仕方が無い。
私はこの国の言う「一つの世界」なんかまっぴらだよ。だけど、ナンニモ感じない人だらけなのでそうなるのだろう。
ナチスの時も同じだったのではないだろうか。
【古森義久の北京奥運考】 「一つの世界」の行方
2008.8.10 産経新聞
灰色のモヤに包まれた北京の街を埋めつくす「一つの世界、一つの夢」の真紅の垂れ幕は、壮大な反語なのかと、つい思った。開会式前から競技開始までの3日間、北京での実体験は世界も、夢も、決して一つではないと痛感させられる連続だったからだ。
まず直行した外国人用アパート式ホテルでパスポートを問答無用で取り上げられた。警察に「臨時居住」を即時、登録するためだという。ホテルの部屋のインターネット回線の接続も尋常ではなかった。自分のパソコンに多数の通告情報をインプットし、さらに先方にこちらの情報を送らねばならない。
そのうえで1日ほど使ったパソコンの画面には「スパイウエア探知」という黄色い警告が出始めた。専門家に調べてもらうと、短時間のうちに驚くほど多数のウイルス類その他に侵入されており、このままだと深刻な実害を受けるという。通信を即刻、別の方法に切り替えた。
北京五輪の事前報道にあたった各国報道陣からは中国当局が米欧の大手のメディアやチベット、法輪功などのウェブサイトへのアクセスを阻んでいるという抗議が起きていた。自分で試みてもなるほど、アクセスできない。中国でのこうしたインターネット規制についての英BBCテレビのリポートをみていたら、規制の批判部分でピッという音とともに音声が途切れ、映像が乱れた。これまた明らかに当局の「検閲」だった。
単にオリンピックの報道のために入国した外国人記者たちにもこんな制約や監視のタガが二重三重に課される。米紙の報道では北京市内を走る7万台ほどのタクシーの大多数には当局によりGPS(衛星利用測位システム)に基づく車内盗聴マイクが設置されたという。まさにジョージ・オーウェルが未来小説「1984年」で描いた全体主義国家を管理する「ビッグ・ブラザー」は健在なのである。その運営には気の遠くなるほど膨大な国家の資源や人材が投入される。
中国当局によるこの種の監視や管理は中国総局長としての2年間の北京在勤でさんざん経験したのだが、7年ほどの空白を経て身をさらすと、他の普通の国の規範とはいかに異質であるか、衝撃的な違和感に襲われる。まして中国未体験の記者たちが五輪取材のためにだけ訪れて、こうした制約を受ければ、仰天し、中国をまるで異なる世界として感じるだろう。「一つではない世界」の実体験である。
これほど特殊な国の中国にいくら「世界は一つ」と説かれても、うろたえ、憤るだけだろう。
だから中国政府を代表して五輪取材の外国人記者たちに中国のいまの対外関係を語った外交学院教授の呉建民氏は、中国の異質性を問いただす質問を集中砲火のように浴びた。
「中国には独自の法律とともに欧米とは異なる独自の文化がある。欧米では他者を白と黒に区分し、善悪を単純に分けてしまうが、現実はそんな簡単ではない。欧米諸国は中国を先頭とする歴史の長い国や開発途上の国の文化や価値観への理解を深めねばならない。そうなれば、オリンピックが象徴する調和のある一つの世界ができるだろう」
答えになるような、ならないような説明とはいえ、フランス駐在の中国大使や外務省の報道局長を務めた呉教授は根気よくスムーズに質問に応じていった。
さてこの北京五輪が中国にとってそんな「一つの世界」への飛躍となるのか、それとも逆に世界での異端としての印象を強めることに終わるのか。
過去の中華帝国が全世界に残した偉業を主題とする大開会式によって、いまや新しい史劇のカーテンが引きあげられた。(編集特別委員)
★これもおまけだ
「オリンピックと政治は別か?」 結果
このページの右側のフリーエリアにずっと中国に関連した本がリンクしてある。今日はその中に書かれている極一部を紹介する。
著者は日本在住の“台湾人の医師”である。
日本よ、こんな中国とつきあえるか(14)
台湾人医師の直言
(転送転載自由)
出版 並木書房(2006年7月)
著者 林 建良
第2章 台湾から見た日本および日本人
争いを避けたがる日本人に平和は守れない
6、博学にして無知な日本人
●被害者に命の尊さを説教する?
日本に来て一番感心したのは、日本人の知識の高さであり豊かさである。日本の一般庶民が、台湾の庶民に比べて豊富な知識を持っていることに驚かされた。ごく普通のおじさんやおばさんでもかなりの教養を持っていて、文化、芸術、文学など、いろいろなことについて知っている人が少なくない。
私は栃木県の片田舎で生活しているので、まわりには農家の人が多い。そこには俳句や短歌を作っているおじいちゃんやおばあちゃんたちがいて、彼らはよくその作品を私に見せてくれる。なかには、絵を描いているお年寄りもいて、その絵をもらったりもする。話をしてみると、国の経済状況にしろ社会状況にしろ、それなりの知識を持っていて、私の知らない話をよく聞かせてくれる。
日本に来る前から、日本人は本を読むのが大好きだと聞いていた。実際、日本に来て本屋をのぞいてみると、思っていた以上に出版されている数が多いのに驚かされた。あらゆる分野を網羅し、手に入らないものはないのではないかと思い、日本人は出版物には恵まれていると感心した。
おそらく日本人は、世界のどの民族と比べても知識の点では最高水準にあるのではないかと思われる。しかし、なぜか非常に幼稚とも見えるところがある。無知に近い、あるいは無知と言っていいような現象を見聞きすることが多い。
私がよく予防注射に行く栃木県今市市(現日光市)内の小学校で、一年生の女の子が殺害されるという事件が起こった。何とも酷い事件である。
このような事件が起こると、学校では決まって全校集会を開き、子供たちに命の尊さを説教する。しかし、これは異様な光景だ。被害者になっていたかもしれない子供たちに、命の尊さを説教するということにどういう意味があるのだろう。子供たちに命の尊さを説教するのは滑稽としか言いようがない。命の尊さを説教するなら、犯人にすべきなのである。子供たちに教えるのは、いかに自分の身の安全を守るか、それだけだ。
●人間の善の面ばかりを強調しすぎる日本の教育
日本の戦後教育を見ていると、人間の善の面ばかりを強調して、悪の部分には触れたがらない傾向が強い。まるで童話の世界を見ているようだ。しかも、それは幼い者に対するほど顕著で、制約を極力なくして、本能的な部分を尊重しているようだ。かつて小児科も担当していた私から見れば、これは子供の動物的部分を放置するようなもので、教育の放棄でしかない。
たとえば、個性の尊重を強調する。しかし、人間はそもそも自己中心的なので、教えずとも本能として個性を発揮する。学校教育というのは、自分の個性だけではなく他人の個性を尊重し、社会のルールを守ることを教える場だ。それを、個性や自由といった本能に類することを教えるというのだから、これが学校教育と言えるのかどうかはなはだ疑問だ。
また、幻の平和と反戦を吹聴する一方で、正義感と冒険心を意図的に子供たちから取り除こうとしている。そして、決まって命の尊さを説教する。子供の悪に相当する動物的部分を放置しながら、正義感と冒険心を抹消しようとするこのような日本の学校教育は、偽善的で偏っているとしか言いようがない。
そもそも、子供が善の存在だというのは幻想にすぎない。子供にも悪の部分はある。だからこそ躾が必要なのであり、さらにこの世には善もあれば悪もあるという現実を子供に教えるべきなのである。悪の存在を教えないような教育であれば、当然ながら悪に向かっていく正義感も育たない。また、我が身を守る心構えも育たないのである。
このような教育はつまるところ、子供に迎合して教育しているのである。知恵のある者が知恵のない者に合わせて教育しているということである。こういう教育の現状を見てしまうと、これは無知に基づいてやっているとしか思えないのである。
私は地域診療のかたわら、地元の小学校と中学校の学校医も務めている。日本の教育は子供に媚びる傾向が異様に強いように感じている。
子供を無垢で善な存在と考え、それに基づいておこなわれる個性尊重の教育は、結局、教育現場の崩壊をもたらしているが、これは教育責任の放棄以外のなにものでもない。なぜなら、それは人間は本来、善と悪を兼ね備えている存在であることを無視しておこなっている教育だからである。結果として、人間の悪の部分を矯正することを放棄し、善を伸ばすこともできないのだ。
子供を善の存在とする教育思想は、子供の悪の部分を放置して助長してしまう。実際、私の診療室に、親に対して命令形で話をしたり、バカと怒鳴りつけたりする子供を多く見かける。このような子供たちがどのような大人になるのかは、成人式での新成人の悪ふざけを見れば想像がつく。
なぜ賢いはずの日本の大人はわからないのか、台湾人の私は理解に苦しむ。いや、わからないはずがない。戦前の日本人は子供に媚びるような真似はしなかったという。しかし、現代の親や教師にとっては、個性の尊重を楯に、子供に媚びる方が楽だからだろう。
●知識やデータは蓄積できても、発言は許されない?
ところで、国家レベルから見れば、日本はありとあらゆる世界情勢に関するデータを持っている。日本の繁栄はこれらのデータによるところが少なくない。
先にも触れたように、二〇〇五年一二月八日、民主党の前原誠司代表(当時)がアメリカで中国の軍備増強について脅威だと発言したことがあった。当たり前のことを指摘したにもかかわらず、民主党内からは鳩山由紀夫幹事長をはじめ前原発言を非難する声が相次いだ。
一二月二二日、今度は麻生太郎外務大臣が閣議後の記者会見で、中国の軍備増強について「軍事費が一七年間、一〇パーセント以上伸びている。その内容はきわめて不透明だ。かなり脅威になりつつある。前原氏の『脅威、不安をあおっている』という言い分は確かだ」と発言したところ、山崎拓元自民党幹事長が「脅威と言ってしまうと、対処しなければならなくなる」と批判した。
もちろん中国は、前原発言にも麻生発言にも、根拠のない中国脅威論であり、「中国の発展が、日本を含むアジア各国に大きな発展のチャンスをもたらすなど、地域や世界の平和に貢献してきた」と、中国の軍備増強は日本の発展にも貢献したと嘯いて反発した。
この前原代表や麻生外相のケースに現れているように、日本では、いろいろなデータをそろえ、いろいろな知識を蓄積することは許されているが、その知識やデータに基づいて発言することや行動を起こすことは許されていないようだ。つまり日本では、研究するのはいいが、行動を起こしてはいけないことになっているようなのである。
世界では殺人、戦争、権謀術数、裏切り、闘争、資源の争奪などさまざまなことが起こっている。しかし日本では、このようなことは映画やドラマの世界の出来事と片づけ、まるで存在しないかのように考えて「臭いものにフタ」をしているように思われる。日本人を見ていると、そのようなことが世界で起こっているとは考えたくもないというふうだ。
これは、ある外交官から聞いた話である。
外国人新聞記者が外務省の高官に「もし万が一、台湾と中国が戦争になったら、日本の外務省はどのような対策をとるのか?」と質問した。これはきわめて現実性の高い想定で、当然、対策はあるものと思って聞いたのだそうだ。すると高官は「われわれはそのような事態を発生させないように努めている」とだけ答えたという。
それだけだったので、その記者はもう一度「もし発生したらどうするのか?」と聞き直した。すると高官は「われわれはそのようなことは考えたくない」と答えたというのである。
確かに、外交官としては事態が発生する前にその芽を摘み取っておくのが役目と考えての発言だったのかもしれない。もちろん、それが外交官としての役割なのだから理解できなくもない。しかし、「考えたくない」とはどういうことだろう。発言の影響力を考えて「仮定の話には答えられない」と言うのならまだわかる。しかし、外交の最先端にいる外交官が考えなくて誰が考えるというのだ。
実はここに今の日本が透けて見えるのである。日本人には、世界で現実に起こっている戦争も殺人も暴動も略奪も「考えたくない」対象であって、映画やドラマという虚構の世界に押し込めてしまいたいのであろう。
●戦争の想定すらできない日本人
では、日本人は軍事学や世界情勢について無知であるかというと、決してそうではない。私が知っている自衛官にしても軍事マニアにしても、恐ろしいほどの軍事知識を持ち、世界情勢の分析も的確で、私はいつも感心しながら拝聴している。しかし、この知識を行動としてどのように活用するかについてはほとんど考えていないようだ。
たとえば、中国と日本の兵器などの戦力をよく知っている日本人に、「万が一、中国と日本が戦うときはどうするのか?」と問うと、途端に口が重くなって、まるで貝のように口をつぐんでしまうのだ。
このように、知識に基づいて事態を分析・予測して行動に移すということが日本ではタブーとなっている。そこで思考を停止してしまうのである。それゆえ、起こっていても、見て見ぬふりをし、起こりうると予測される事態であっても、非現実として考えないようにしているのが今の日本だと言ってもあながち間違いではあるまい。
それが冒頭に述べたような教育にも現れ、殺人事件があるたびに、学校は身を守るための行動については教えず、命の尊さを説教するだけに終始してしまうのである。また、自国の将来に関わる防衛をどうするかという問題では、戦争の想定すらできない日本人が増えつつあるのである。
おそらく大方の日本人は、日本が核兵器の脅威にさらされたとしても、かたくなに「非核三原則」を守るつもりなのかもしれない。しかし、前原誠司氏も指摘したように、すでに中国の核ミサイルは日本に向けて配備されているのである。これも「非現実」の事態だというのだろうか。
●いつまでも学生気分に浸っている日本人
日本に長くいればいるほど、日本人全員がずっと学生でいるのではないかという感じが強くなってきている。日本人全員が毎日、一所懸命に勉強しながら学校生活を送っているような思いにとらわれるのである。学校のキャンパスにいれば、学内で多少のいざこざがあっても、学外で起こっている陰謀や殺人や戦争からは保護され、仲間や先生に認められればそれでよしとして満足しているのである。
その点で、今の日本人は殺害された小学校一年生の女の子のようにも思えてくる。学校では一所懸命に勉強しているが、自分をどう守るのかを学校では教えてくれないし、自分もその術を身につけていない。学校のなかなら先生や仲間に守られているが、一歩、学校から出れば守ってくれる人はいない。
今の日本はアメリカに守られているが、アメリカが手を引いてしまえば、学校から一歩出た女の子と同じような立場に立つ。しかし、日本はどのようにしたら自立できるのかといった議論は、すぐに封じられてしまう。実行はおろか議論さえもまともにできない国なのだ。
日本をどう守るか、日本の置かれている状態はどうなのかなどについて、日本人はよく知っている。しかし、有事の際はどうするのか、どのように対処するのか、そのようなことについては立ち上がろうとしない。日本が集団的自衛権を実行できないでいるのも、これが原因していると言ってよい。
日本人は知識を持っている。しかし、学校で学んだ知識のように実際には役に立たない知識かもしれないし、そうでなかったとし
ても、使おうとしない知識であれば、いくら博学でも無知に等しいのである。
★以上、引用でした
私は日本を離れる前に祖国日本について考え、調べた。事態は理解できたが個人の力は無に等しい。日本はもはや7割方手遅れだと思う。
よのすけは携帯電話を持っていない・・・・持っていない・・・・????はずだったが、何故か我が家に1台有る。携帯を持つ気が無いにも関わらず、そんな人にも携帯が・・・・。
携帯は世界中に蔓延しているのだろうか?( ̄△ ̄) !!??
この携帯、実は空港送迎の仕事をしている時に仕事用として雇用主さんから手渡されていたものだ。英語のマニュアルと共に(勿論、読んでいません(^^; )。
でも、その仕事も先月廃業されたのでもう無い。…(T_T)
で、この電話はその雇用主さんから「よかったら使ってくださいと」頂いた物である・・・・・だが多分使わないだろう。第一この電話機の番号すら覚えていない。
(^^;
★我が家にある携帯ですが、いつも電池が切れています。(^^;
自宅に電話がある上にさらに携帯電話に加入するなんて、時・所構わず電話しなけりゃならない相手なんていない。メールもインターネットも自分の時間が空いた時、自宅でゆったりPCで見る方が良い。
よのすけには、どうしてみんなそんなに携帯が好きなのか理解出来ない。よのすけは結構新しい機械ものは好きだけど、これだけはちっとも欲しいなどと思ったことが無い・・・・。しかし蔓延している。
きっと、よのすけの方が異常なんだ・・・・・・・と思う。(^^;
今日、郵便受けにOPTUSの広告が入っていた。アップルのiPhoneの写真がドーンと掲載されている。まじまじと見ると実に分かり易い。素晴らしいインターフェイス・・・凄く良いデザインである。
どうしてアップルだけがこんなに良いデザインの携帯電話が作れるのだろうか。目からウロコのような・・・・どうして今までこれと同じようなデザインの携帯が無かったのだろうか。これならほとんどマニュアルを読まなくても使えそうな・・・・・・。そうではないかも知れないが、そう思わせるだけでも凄い。
★それにしてもこのタッチパネルの表示機は液晶だと思いますが、高精彩ですよね
これに比べたら、他の携帯は全部ラビッシュ!(^^ゞ
昔の仕事柄デザインには感心したが、勿論、買って使う気などはさらさらない。( ̄ー ̄)ゞ
先日車にガソリンを入れましたが1リッター$1.519でした。この所は$140台後半から$150ぐらいが普通で時とともにひたすら高くなって行きます。日本でも170円になるとか。
今、原油価格がバレルUS$130を超えて来ています。ここ10年のチャートを見ると昨年から今年に掛けての上がり方はもの凄いです、もう垂直に推移しそうなくらいの角度になっていますから、そろそろ限界って感じにも見えます。
★10年間の月足です、もう直ぐ宙返りしそうです。(^^ゞ
$150ぐらいにはなりそうですね。でも$200にもなったら他のエネルギーに是非切り替えたいということになるのでしょう。新エネルギー、いろいろ候補は有りますが一番環境に優しいのは太陽エネルギーが活用出来ることではないでしょうか。
そして原子力の活用推進だけは絶対に人類として間違った方向だと思います。(>_<;)
新エネルギーwikipedia
さて、人類はかつてこの地球の資源を活用してエネルギーを確保してきました。これがもし主要なエネルギー源が太陽となると画期的なことで21世紀はエネルギー変革の世紀となるのでしょう。
が、全て太陽でというのは難しいそうですね。太陽エネルギーは結局電力に変換されるのでしょうから家庭や自動車や電車、また産業で使われるエネルギーとしてほとんど問題は無いのですが、ふっとジェット機はどうなるのでしょうか。( ̄_ ̄?)
ジェット機は石油(ケロシン)を圧縮空気の中で燃やして飛びます。
エネルギーが電機だと動力はモーターしか使えないのかなと思います。モーターではプロペラ推進しか出来ないでしょうから今のような大出力のジェットエンジンの代役は務まりません。電機エネルギーで飛ぶ高速飛行機には何か画期的なエンジンが必要となりそうです。
いずれにしても大きな変化を我々は目前にしている事は確かではないでしょうか。
実は原油の価格を押し上げているのは投機的資金によるものだとよく言われます。ということは人の読み心配、そして欲そんなものが影響しているということになります。
今この分野の世界では次のエネルギーに関連する投資先を血眼になって見付けだそうとしているようです。全く疲れる世界です、でも当たれば大変な宝の山である事も確かです。┐( -_-)┌




